井戸

小説

「ひぃやぁー」妻の久代が叫んだ。

「どないしたんや」

 幸一は運転席のドアを開けたまま慌てて駆け寄る。

「えっ。水に落ちたような……」

 言いながら久代は、恐ろしいものでも見たような顔をしている。血の気がない。

 幸一はしゃがんで妻の足を見たが、まったく濡れていない。アスファルト舗装された駐車場には水たまりなどない。中天にある5月の太陽からは心地よい光が降っている。

 大事なものに触れるように、妻の体を見回したが異常はまったくない。

「寝ぼけてたんかいな。ぬくいさかいな」幸一はホっとして運転席側へ戻った。

 久代はドアを閉め、幸一に従った。

「にいちゃん、こういちくんとちゃうの」

 車のドアを閉めたところで背後から声をかけられた。振り返ると見覚えのある女性が立っていた。仔犬をいっぴき抱いている。

「私、お母さんの同級生の島川です。覚えてる?」

「ああ、島川のおばちゃん。ご無沙汰してます」と幸一。

「久しぶりやねぇ。四国から帰ってきたん」

「ええ。あっ、これ嫁さんです。久代言います」

 幸一はとなりで、まだ呆然としている妻に顔を向けた。

「こちら、お母ちゃんの友だちの島川さんや」

「島川言います。お義母さんには、いっつも良うしてもらって」

「初めまして、久代です」と言ったものの、目には怯えに近い色が残っている。

「ところで、どないしたん。大きい声出しはって」

「僕にもようわからんのですわ。車を降りたとたん、叫びよったさかい」

 二人に見つめられた久代は、もじもじしながら、

「車から下りたとたん、足先からズボっと水の中に落ちたような……。そんな気がしたんです。それももの凄う冷たい水に」と応えた。

「何をわけのわからんことを。ついさっきまで寝てたからやろ」幸一は笑った。

「そんなことないよ。横でバックの確認とかしたし」と唇をとがらす久代。

 二人のやりとりを聞いていた島川は、思いついたように話し始めた。

「この駐車場ね、最近できたのよ。ほんまはマンションが建つはずやってんけど、あのなんちゅうたかなぁ、何とかショック……」

「リーマンショックですか」と幸一。

「そうそう、それ。それで業者が倒産したとかで、よそに転売されたの」

 話の見えない幸一と久代は、黙って島川の言葉を待つ。

「ほんでね、マンションはええねんけど。ここが更地になる前は、大きな料亭やったん。にいちゃん、覚えてるやろ」

 話を向けられた幸一は、かすかだが記憶に触れるものがあり、小さく頷いた。

 しかし、その料亭は幸一が物心つくころにはすでに廃業していた。

「その料亭の、ちょうどこの辺りやったと思うわ」

 島川はわざわざ助手席側に回り込み指差した。

 ふたりもつられて移動し、久代が車から降りた辺りに目をやった。

「ここにね、井戸があったのよ。深いふかい井戸が」

 島川はにっこり笑い久代を見たが、久代は眉をしかめ幸一に助けを求めた。

「いや、でも。今は無いですよね、井戸」

 幸一は反論した。

「そうやな、無いわね」と島川は応え、続ける。

「でもな。一度掘られた井戸は、たとえ埋められても、井戸のまんまやねん。ずーっと水が湧いてる。見えへんけどね」

(島川のおばちゃん、こんなこと言う人やったかなぁ。変な宗教にでも凝ってんのと違うか)

 幸一は思いつつ、妻の久代を見た。

 久代は、はっとしたような顔を見せ、島川の話に耳を傾けている。

(女はわからん)

 幸一は思った。

「奥さんはきっと、そういうことのわかる人やねんやろな」

 久代は首を振りながら、

「いえいえ、私は鈍感ですし」と応え、こんなこと初めてですと続けた。

「でも、そう言われれば、井戸水みたいにすごく冷たい感じでした」

「そうなんや」と島川は言い、にっこりして、

「失礼やけど、奥さん妊娠してない」と続けた。

 幸一と久代は顔を見合わせた。

「やっぱりな」と島川。

「赤ちゃんが出来はって、体質の変わることって、女にはようあるんよ」と島川は言い、

「にいちゃん、おめでとう」と付け加えた。

 実はその報告のための帰省だった。安定期には入ったそうだが、久代のお腹は決して目立つほどではない。島川に言い当てられ、ふたりはちょっと驚いた。

「ああ、おばちゃん、要らんことばっかり言うたみたい。ごめんな」

「いえいえ、こっちこそ済んません。ほんで有難うございます」

「お母さんによろしくね。奥さんもお大事にぃ。元気な赤ちゃん産んでよ」と島川は告げ、仔犬を下ろして歩き始めた。

「有難うございます」久代は後ろから声をかけた。

 島川を見送りながら、幸一は生まれ育った町の変貌に思いを馳せていた。今いる駐車場の周りは、3方がマンションに囲まれている。江戸時代からの酒造業で栄えた町の俤も今はすでにない。

(井戸にも想いがあるのかもな)

 幸一は思った。

「さあ行こか。おふくろも親父も待っとるやろ」

「ええ」とだけ久代は言い、もう一度井戸のあったという辺りに目をやった。        (了)

コメント

タイトルとURLをコピーしました