一撃 1

小説

 午前2時を過ぎていたから、とうに日付が変わって9月19日になっていた。

 近畿に接近していた台風は、急に東海洋上に去ったので直撃は免れたが、風は依然として強く、雑木林を騒がせていた。

 大介は、ハンドルを握り締めて、ライトに浮かぶ山道に目を凝らしていた。

 急な勾配の登り道は、所々窪んでいて、軽自動車が大きくバウンドするので、運転がし難かったが、それが却って眠気覚ましになっていた。大介は、

「この峠さえ越えたら、もう直ぐや」と、助手席の妻に声を掛けた。

 頼子はそれには応えず、先刻から繰り返している愚痴を、また始めた。

「治夫兄さん、入院する程悪かったなら、一言、知らせてくれはったら良かったのに。見舞いにかて、看病にかって行って上げたのに。良雄さんも、水臭いお人や」

 大介もうんざりして、

「良雄も、兄貴がそんなに悪いとは、思うへんかったんや。兄貴がえろう痩せて来るんで検査のため入院させた言うてたやろ。まさか死ぬほどの大病とは思わず、入院したことは親戚にも誰にも知らせなんだんや。すんません、言うて謝ってたやろう」と、同じことを繰り返す。

「けど、吃驚したわ。良雄さん言うたら、夜中に電話してきて、いきなり、治夫兄さんが亡くなった、言うはるんやもん」

 つい二時間ばかり前のことだが、寝床に入ったところに、電話が鳴った。

「こんな夜中に、誰でしょう。いたずら電話かな」と、眉を顰めて電話に出た頼子が、突然、金切り声で大介を呼んだ。

 頼子の只事でない様子に、飛び起きた大介は、頼子の震える手から受話器を受け取ったが、泣きじゃくる声が聞こえるだけで、さっぱり様子が判らない。

「良雄か。どうした良雄。どうした」

 大介が声を励ますと、ようやく、

「叔父さんが、叔父さんが亡くなった」と、良雄の声がした。

 良雄は、大介の亡くなった一番上の兄、明一の次男で、子供のない次兄治夫と同居しているから、その良雄が叔父さんと言うからには、治夫のことに違いない。

 しかし、あの元気な治夫が死ぬとは、とても信じられないので、

「叔父さん言うたら、治夫兄さんのことか」と、聞き返さざるを得なかった。

 それから色々聞き質して、事情が判った。

 治夫は、一月ばかり前から、急に食欲がなくなり、異常に痩せ始めたので、良雄が心配して、嫌がる治夫を無理に、県立病院に連れて行ったそうだ。

 病院では、検査のため入院するよう指図があり、1週間ほど前に、軽い気持ちで入院させたが、検査の結果によると、既に癌が胃から腸に転移していて、手の施しようのない末期の症状を呈していたらしい。

 医師団は、胃カメラを囲んで俄かに緊張したが、肝心の患者は寿命が尽きたのか、その夜に大量に吐血して死亡してしまった。

 患者が亡くなったので、医師は不体裁に役目を終えたが、遺された者は、特に遺児ともいうべき良雄は、ただ呆然自失、葬儀社の指示で、辛うじて遺体を引き取り自宅に安置したところだが、ともかく大介に、一刻も早く来て欲しい、と願うばかりである。

 大介夫婦は家を飛び出し、2時間ほどかかって、漸く郷里の入口の峠に差し掛かったところだ。

 急坂を転げ落ちるように下って、広い県道に出ると、遠くに農家の黒い影が見え、やがて県道の両脇に住宅が立ち並び始めた1軒目が、目指す治夫の家だった。

 この辺りは、丹波名産の陶器の里として知られていて、神戸や大阪にも、また有馬温泉にも近いこともあって、観光バスが連なって押しかける観光地になっている。

 この立地条件に着目した治夫は、親から相続した県道端の田を埋め立てて、観光バスの3、4台も止められる駐車場を造り、観光客目当てに、陶器の販売店を始めた。

 商売を始めて30年は超えるが、段々手を拡げ、地続きの松林を切り開いてそこで焼物教室も始め、有馬温泉や郡内の県道沿いに、販売の支店も出すようになった。

 店も「有限会社小川陶器店」と、会社組織にし、従業員も増やし、アルバイトの女の子だけでなく、若手の陶芸家も雇った。

 子供のいない治夫は、甥の良雄を特に可愛がり、良雄が高校を卒業したその年から引き取って、店の仕事を手伝わせているが、近々正式に養子にする予定で、兄弟や親戚も目出度いと、喜んでいた矢先だった。

 治夫の住いは、駐車場の奥にブロック塀で仕切られて建っている。

 大介は駐車場に車を置いて、森閑と静まり返った玄関に向かった。

「妙に、静かでんな」

「人が死んだんや。静かで当り前や」

 そう大介は言ったものの、余りにも人気のない様子に、少し不安になった。

「ごめん。ごめん。今晩は」と、2度、3度声をかけると、パッと電灯が点り、顔を腫らせた良雄が姿を見せた。

「あぁ、叔父さん。遠いところ済みません。叔母さんも、済みません」

「えらいことや。信じられん」

 大介は良雄に導かれて、奥の部屋に歩きながら、

「ほんまに信じられんわ。兄貴は、わしより2つ上やから、まだ66の筈や。死ぬような年と違うで。ほんまに信じられん」と、繰り返した。

 奥の8畳の部屋に入ると、床の間の前に北枕で布団が敷かれ、全身に薄い布団をかけられた治夫が、仰臥していた。

 両手を腹の上で組んでいるのか、腹部が少し盛り上がり、その上に、赤い錦の袋に納めた守り刀が乗せてある。

 顔は白い布で覆われ、枕元に経机が置かれて、型どおりの線香が1本、揺らぐ煙と香りを出し続けている。

 治夫の足元に、大介の姉の淑子とその夫の貢が、暗い表情で座っていて、

「ご苦労さん。遠いところ、ほんまに済みません。頼子さんも済みません」と、低い声で挨拶した。

 大介はポケットの数珠を取り出して、両手を合わせてから、手を伸ばして、顔の上の白い布を取った。

 痩せて頬が落ち込み、薄く髭の伸びた、蝋作りのような顔が見えた。

 背後で頼子がすすり泣き始め、大介も、突然込み上げて来た悲しみを抑えきれずに、涙を流して嗚咽した。

 小川治夫が、腸癌で亡くなったのは、9月18日金曜日の午後11時だった。

 翌19日が通夜、20日に葬儀と初七日の法要を済ませ、慌しく日が過ぎて行った。

 治夫の屋敷の柿の葉も、色づき始めたろうと感慨に耽っていると、良雄の母の定枝から不意に電話が架かってきた。

 定枝はくどくどと挨拶をした後、

「実は、大介さん」と、暫く言い淀んでいたが、全く意表外の事を、意外に滑らかに話し出した。

「昨日、治夫さんとこの仏壇、掃除してましたら、仏壇の奥から、仰山、通帳が仰山、出てきたんです」

「通帳。へえー。何の通帳です」

「貯金通帳ですがな」

「貯金通帳。治夫兄さんのですか」

「そうです」

「姉さん、そんなに吃驚しはらんかて。そりゃあ兄さんかて、貯金通帳くらい、持ってはりまっしゃろう」

「それがのう」と、定枝は言葉を区切ってから続けた。

「それが、金額が、ちょっとやそこらの金額とは違いますのや」

 定枝の尋常でない息遣いが伝わり、大介の声も自然に上ずって来る。

「へぇー。いくら程ですねん」

「まだはっきりとは見てませんけど、定期の証書だけでも、チラッと見たとこ、9千万か1億は、あるように思いますけど」

「1、1億!」

 大介は絶句して、暫く沈黙していたが、

「そりゃあ、結構ですなあ。ほんまに結構ですな。良雄も喜んでますやろう」と、辛うじて言葉を発した。

「結構は結構に違いないですけど。幾らあっても、良雄のお金とは違いますよって」

 定枝の思い掛けない言葉は、大介をいきなり現実に呼び戻した。

 実のところ大介は今の今まで、兄の治夫の遺産について、あれこれと考えたことが無かった。ただ漠然と、治夫と良雄は一体と思っていたから、治夫と良雄の問題であって自分には関係が無いと思っていた。

 弟の正吾は、法要の席で「治夫兄さんは大きな商売をしてるから、借金も多いだろうが、万一のその支払いはどうなるのか」と、不意に心配を洩らしたが、大介にはその様な懸念も、一切無かった。

 しかし、亡兄の遺産が1億円、と耳にすれば、慎ましいサラリーマン生活を送ってきた大介には、夢のような金額で、胸の奥底に自然に起こる漣を、抑えることも出来ない。

 しかも治夫には妻も子も無い。となれば、その漣は複雑な動きを見せるのが当然で、大介はすっかり黙り込んでしまった。

「大介さん、大介さん」

 電話の向うから、定枝が続けて大声で呼ぶが、大介の耳には聞こえない。

「大介さん、大介さん」流石に苛立った定枝の声がする。

「はい。はい」大介が思わず返事をしたが、

「ところで、姉さん。家屋敷や店舗、山や田地なんかは、誰の名義になってますねん。治夫兄さんの名義になってますか。それとも良雄の名義にしてありますのか」と、自分でも予期しない言葉が飛び出す。

 定枝も思わず、

「私はよう判りませんけど。多分、みんな治夫さんの名義のままと思います。良雄が正式に養子に入っておれば」と、受け答えしていたが、大事な用事を思い出したとばかりに口調を改めて、

「大介さん。この際ですから、治夫さんの定期のお金の有る無しに関わらず、良雄をどうしたら良いのか、おじさんたち皆さんで、親身に相談してやって欲しいのです。このままでは中途半端で、良雄が可愛そうです」と、一気に話し出した。

※以上は亡父の創作である。未完に終わっている。一読してこれからの展開に興味を持った。

 私には続きが書ける自信はないが、今は完結させたいと思っている。我思子に小説は多い方がうれしいし……。

 なお父はタイトルを『一撃』としていたので、私も『一撃』のまま書いて行こうと思う。

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